昭和42年(1967年)生まれの私には物心付いた時にはドリフは生活の一部となっていました。
荒井注が居た頃から覚えています。 いちいち「ドリフファン」と言わなくても当時の子供たちにとっては、ドリフのギャグは常識でした。 親から「8時だよ!全員集合」を見ることを禁じられていた子供も、その親が進んで買い与えていた小学館の学習雑誌には必ずといっていいほどドリフの記事が載っていたのです。 今でも人気のお笑いタレントはいますが、ここまで全国の子供たちの心を鷲掴みにした芸能人はいるでしょうか? そんな私でも結局は「ひょうきん族」へ流れてしまった一人です。その理由はよく覚えていないのですが、とどの詰まりはつまらなくなったからでしょうか。 ドリフのオープニングコントの面白さは、いかりや親分と4人の子分の図式でした。またドリフターズというグループ自体がそういう形式をとっていました。 威張っているいかりやに対し、子分の加藤茶や志村けんに子供たちは感情移入したのです。 全員集合末期にはその図式が崩れ、志村のキャラクターに頼る内容になってから、見ている方も苦しくなってきました。 その後「カトケン」が始まりましたが関心は無く、「ひょうきん族」をずっと見ていました。 「ひょうきん族」も内輪受けが目立つようになり、つまらなくなって見なくなりました。 お笑い番組自体、練り込んだネタよりもゲストいじりやトークが中心になって、面白くなくなって見なくなってしまいました。 その後のドリフメンバーは「大爆笑」を続けながらもソロやシャッフル活動が目立ち始め、分裂してしまいました。 自分にとってのドリフターズは「8時だよ!全員集合」で終わっていたのでした。 でも・・・いざ、いかりや長介が亡くなって如何に自分の人生にドリフターズが食い込んでいたのか思い知らされたのです。 あまりにもドリフという存在が日常的過ぎたので、失ってからその存在の大きさに気が付かされたのです。 それは肉親を失った時の感覚に近いほどです。 正直、美空ひばりや石原裕次郎の死に大騒ぎする世代に、会ったことも無い芸能人に何故そこまで感情移入する?と思っていました。 しかし、それは単に芸能人の死ということではなく、その時代の自分の人生の一部が削り取られたという感覚なのだと、気が付きました。 そしていかに自分が年を取ってしまったのかという事も認識させられたのでした。 |
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